宝泉寺は「和漢三才図会」(江戸時代の百科事典)や「吾妻鏡」などによると、西暦810年頃の草創と伝えられます。また承平年間(931-938年)平将門の乱を平定した藤原秀郷(俗称、俵藤太) の草創とも伝えられ、そのどちらをみても千年以上の歴史を持つ古寺であることがわかります。
南北朝の動乱で荒廃しましたが、文亀元年(1501年)に関東管領上杉朝良が荒廃を嘆き私財を投じて迦藍を復興しました。しかし、戦国の戦乱により再び荒廃してしまいます。その後、天文19年(1550年)牛込時国によって再興されました。
江戸時代に宝泉寺は隆盛を極め、本堂(本尊薬師如来)、毘沙門堂、常念仏堂、鐘楼を擁し、なかでも毘沙門堂は藤原秀郷の念持仏の毘沙門天が安置されていたことで勝負事にご利益があると有名になり、江戸で最初に富くじが行われた寺院として「富興行一件記」に記されています。また隣接していた水稲荷神社の別当(寺が神社の代わりに行事を行う)となり、高田富士という模造の富士山が在り富士講の流行とともに多くの信者を集めました。境内には、三代将軍家光が名付けたという守宮地(いもり池)があり、春には、梅や桜の名所として江戸の人々の憩いの場となりました。当時は、広大な土 地を有し現在の早稲田大学キャンパスの大部分が寺領であったと伝えられています。
江戸時代に流行した宝くじのルーツ「富くじ」。谷中の感応寺が有名ですが「富興行一件記」によると、宝泉寺が江戸で最も古くから「富くじ」を行っていたことが記されています。また「淀橋奇聞」では、文化一三年に寺男の伝蔵が、寺近くを掘り返して畑を広げようとしていた時、ピカピカと光る山吹色の小判が出てきたとされており、天保一四年にも境内から大枚八〇〇両という小判のぎっしり詰まったつぼが出てきたとも記されています。宝泉寺の「富くじ」「おたから小判」は、お財布の中にいれておくと富が貯まるなど、金運・勝負運にご利益があると言われています。
江戸時代に幾度かの火災にあい、明治時代の廃仏毀釈により寺領も縮小されましたが、15世諶苗大僧正によって復興整備が行われました。 しかし第二次世界大戦の空襲により、そのほとんどを消失してしまいます。
戦後は檀信徒の協力により昭和20年に仮堂を建立、 昭和 27年本堂再建、 昭和 41年には現本堂が建立され、墓地の整備、その後も庫裡(くり)、客殿が建築され現在の姿となりました。
戦時唯一焼け残ったものとして、正徳元年に鋳造され約300年の歴史を経てきた梵鐘があり、今もなお往時の響きを伝えております。