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宝泉寺は、1200年(西暦810年草創)の歴史を持つ、この地で最も古いお寺です。その昔、平将門の乱を平定した藤原秀郷(西暦930年代)が戦勝祈願のため念持仏である毘沙門天(現存しない)を安置したという毘沙門堂があり、勝負事に強いという謂れから江戸時代には、江戸で最初に富くじが行われた寺院として隆盛を極めました。その寺領は広大で、現在の早稲田大学キャンパスの大部分が宝泉寺であり、本堂(薬師如来を祀る)は、大隈重信公銅像の辺りに在ったとも伝えられております。
近代の歴史からも宝泉寺は早稲田大学とは大変ご縁があり、現在も隣接している唯一の寺院でもあります。 このご縁を大切にし、「早稲田の宝泉寺」としてより多くの方に知っていただき、地域の平安を願い仏法を広めるよう努めてまいります。
また、本院は2010年に開創1200年という慶事を迎えました。この良き年を新たな宝泉寺のスタートの年として、地域の皆さま、早稲田大学の学生さん、近隣の子どもたちと力を合わせて「早稲田てらこや」など様々な活動を実行していく所存です。記念行事・恒例行事・イベント等は、その都度「お知らせ」に掲載いたします。 今後とも何卒よろしくお願い申し上げます。
現在の早稲田大学キャンパス内、大隈重信公の銅像のあたりに「本堂」があったと伝えられています。「江戸名所図会」によると伝教大師最澄作とされる本尊がありましたが、その後第二次世界大戦の空襲などにより消失。現在の本堂は、昭和41年に建立。平成4年に新たに造像された本尊の薬師如来は、「現世利益」この世のあらゆる願い事を叶えてくださる仏様であり、病気平癒、家内安全、学業成就、諸願成就にご利益があります。脇侍に日光・月光菩薩、周りに十二神将を配しております。
承平年間(931~938年)、平将門を倒した藤原秀郷(俗称:俵藤太)が戦勝祈願をしたと伝わる毘沙門堂。慈覚大師円仁の作にして、藤原秀郷の念持仏であった毘沙門天を安置していました。その後は、明治30年代まで宝泉寺南側の毘沙門山にあったが火事で消失。「江戸名所花暦」には、「毘沙門堂の小高き丘の上は、新樹空を覆いて涼しく、このあたりの森より時鳥なきそむるとなり」とあります。江戸時代、毘沙門堂は眺めが良く、他より早く鳴き始めるホトトギスが有名だったことが記されています。現在は、本堂に慈覚大師円仁彫刻の毘沙門天を描いた当山第十二世住職慈純(生年不詳~1830年没)の掛け軸が祀られています。
宝泉寺第六世玄海の発願で、約300年前の正徳元年(1711年)に江戸鋳物師(いもじ)西嶋伊賀守藤原正重により鋳造された銅造の梵鐘。江戸鋳物師の技術が頂点に達した正徳年間に鋳造されたもので、仏像が表現されるなど、入念かつ斬新な仕上がりとなっています。宝泉寺が天文十九年(1550年)牛込氏によって再興された時に、梵鐘は鋳造されなかったため、玄海が住職を辞した宝永七年(1710年)に私財を投じて梵鐘を鋳造させたといわれています。江戸時代の梵鐘は、第二次世界大戦中の供出により現存数が少なく、技術的にも史料的にも価値が高く貴重なものとして、新宿区登録文化財にも指定されています。大晦日には除夜の鐘が早稲田の街に響き渡ります。
境内への坂を登って右手にある寺務所。早稲田受験など勝負ごとなどにご利益がある「勝守り」や「富くじ」「おたから小判」、合格祈願などの「祈祷札」をお授けしております。「勝守り」 は、部活や学業だけでなく、現世利益となる病気平穏、健康祈願、家内安全、縁結びなどにもご利益があります。また、江戸時代に流行した宝くじのルーツ「富くじ」は宝泉寺が江戸で最初に行われた寺院として「富興行一件記」に記されています。そして、文化一三年・天保一四年には、境内とその周辺から大枚の小判が出て来たというお話も残されています。お参りの際にはお気軽に寺務所にお声をかけてください。